医師紹介


医師(呼吸器専門医) 折田雄一の経歴

昭和39年3月京都大学医学部卒業
昭和39年4月京都大学病院にてインターン
昭和40年4月京都大学胸部疾患研究所入所
静岡市立病院勤務
昭和42年4月ヴォーリズ記念病院勤務
昭和49年4月京都大学助手
昭和50年4月ヴォーリズ記念病院勤務
昭和55年9月開業〜現在に至る
  
昭和53年京都大学医学博士
平成2年 呼吸器専門医
平成20年日本医師会最高優功賞
平成25年厚生労働大臣表彰

医師から一言

時代の病気に曝されて
今年は戌年だそうだ。今年12月20日以後の10日間ほど84才の戌年を経験することになる。そのために滋賀県医師会報から戌年の随想を依頼されて投稿した。会報と本月報は読者層が違う。会報は医師会員のみに配送されるが、この欄は多くの患者さんから読まれる。そこで文章は多少は変更してあるが、ほぼ同じ文意で私の病気との付きあいをご紹介したい。
 昭和20年夏。私は国民学校5年生。北京に住んでいたが夏休みに入る前から発熱あり、湿性肋膜炎と診断されて、絶対安静で過ごしていた。この時代の唯一の治療法は絶対安静である。8月15日正午の昭和天皇の敗戦の勅語は鮮明に記憶に残っている。昭和21年春に日本に引きあげてきたが、父が鹿児島の片田舎で肺結核で死亡した。貧しい生活であった。
 この貧しい生活の中で、私より1歳下の弟は目の前にある高校入学は拒否。当時の日比谷高校(旧都立一中)でなければ高校へ行かないという。奇蹟的なことだが、地元の成功者が東京で県人のための学生寮を創設して、母はその寮母に就職できた。そのお陰で弟は日比谷高校に入学してしまったのである。私もそれを契機に都立高校へ転入学した。ところが転校まもなくの検診で肺結核と診断されて、休学となってしまった。以後3年間にわたり休学が続いた。その間に2年半ほどの入院生活中に左右両側肺の区域切除を受けた。昭和20年代中期は敗戦の最中で肺結核はまさに国民病であった。
 高校2年に復学した時は既に4年遅れであった。私が高校2年生として登校する時に出合うのは左襟に銀杏のバッジ(東大の象徴)をつけている同級生であった。
 この頃の私の夢は古代ギリシャからローマ帝国時代の勃興と没落を経験した人々の悲しみの歴史を基礎とした学問を志していた。そのために東大文学部を志していた。しかし休学3 年間、その後の1 年間の受験勉強では入学は叶わなかった。次の年はなんとかなりそうな気配だった。ところが年末に弟が私の下宿にやってきた。弟はすでに工学部の3 年生になっていた。彼は遠慮がちに私に志望の変更をすすめた。主旨は東大の数学は機転が必要だが、京大の数学はオーソドックスだ。また、夢で生きるのは本格的才能が必要だ。作家や芸能人、プロスポーツマンをみよ。また、一部ながら両側の肺を切除していることは就職には不向きなこと。ところが医師ならば本来が自由業であるから過去は問われないなどの理由からから京都大学医学部の受験を勧めた。私にとっては医師の存在は療養所で出合った数人のみであり、またそれまで一顧だにしなかった職業である。
 弟は年が明けての2月に私の下宿にやってきた。今回は数学と物理の特訓である。彼は新傾向の数学の問題を予想して私に解説してくれた。入試ではまさにその問題が出題されたが、特訓のお陰で解答できた。私はこれが解けたからこそ、5年遅れたが僅か定員40 人の枠に入ることができたと信じている。
 さて、その後40年は無事に医師としてハンディキャップを持たずに仕事ができた。いつしか世の中は結核の時代から成人病への時代と移り、メタボが喧伝される時代になった。
 私も69才になっていた。その10月末の深夜に目覚めた。動悸がする。触診すると心房細動である。手持ちのインデラルを服用して寝込んだ。翌朝、目覚めると不整脈はない。しかし心房細動は私の記憶の中にはなかったので、受診したところ心エコーの先生がおられた。早速の検査である。結論は左室の動きが悪い。これを聞いて私は迷うことなく友人の院長に滋賀医大浅井教授の予約を依頼した。受診日に入院。手術は冠動脈5 枝のバイパス手術であったが、浅井教授のお力で1カ月足らずで医療現場へ戻ることができた。
 さらに時代は「がん」が世間の話題を集める時期へと変わっていった。私は76才になっていたが、アウシュヴィッツ見学を予定していた。何気なくふとアルコールが過ぎて尿閉になったら面倒だと思い、医療センター泌尿器科を受診したところ、PSA170を越えていた。病院のご厚意でその日のうちに生検まですませて治療開始。薬の効果が良好で、その後は放射線治療を週5日、7週間行った。以後8年ほど後療法なくPSA0.1程度で経過している。この治療期間中に休診を一日もせずにすんだのは治療にかかわった医師のお陰だと感謝している。
 このように私の履歴のなかには、時代の疾病が色濃く反映されている。三度とも生命を奪う疾病である。しかし十二支7回目の83才の今日でも診療を続けている。このような経緯をみると、私は人生の不思議さを感じる。壮健ながら若くして世を去る人。医学の力を借りながらも「何らかの助け」で高齢まで働ける人。この「何らかの力」こそ私たち医師でも関われない神秘な力なのだろうと考えている。  

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医療法人社団 折田医院
診療科目:内科、呼吸器科、循環器科